全く対照的な2人のカリスマ
テスラCEOかつスペースXの創業者であるイーロン・マスクと「投資の神様」ウォーレン・バフェット、どちらも世界に知られる超有名人だ。
また、2022年のフォーブス誌・世界長者番付ではマスク氏が首位、バフェット氏が5位であり世界的大富豪でもある。 だが、この2人の言動・行動、さらにキャラクターは全く対照的だ。
その2人の違いを描いた興味深い記事がある。 8月4日のビジネスインサイダー「ウォーレン・バフェットがTwitterを使わない理由… 『いつでも誰かに、地獄へ落ちろと言える』」である。
彼は、「電子メールもTwitterも、簡単に道を踏み外せる。誰かに対して怒りを感じたときには、10秒もあれば『地獄へ落ちろ』と言えるからだ」と述べる。
また、「Twitterでシェアしたい日々の意見はない」とも述べる。 さらに、過去には「個人的にツイートしたことは一度もなく、他人のツイートを調べる方法も知らない」と述べた後、「だが私は、とても満足した人生を送っていると感じている」と彼特有のシニカルなジョークも飛ばしている。
それに対して、マスク氏は、さすがに「地獄へ落ちろ」とストレートに言ったことはないと思うが、数々の「問題発言」で世間の注目を浴びてきたことは読者もよくご存じの通りだ。
さらには、そのツイッター社に「敵対的買収」を試み「相手をねじ伏せた」にもかかわらず、突然買収を撤回するという暴挙に出た。
その結果、読売新聞7月20日「ツイッター社訴訟、10月開始へ…マスク氏は『偽アカウント問題を精査』と来年2月を要求」のような混乱が起こっている。
もちろん、バフェット氏はそもそも「敵対的買収」を一切行わないし、買収を決断してから「話が違う」などと喚き叫ぶこともない。事前の準備を怠らないからだ。 世界的有名人、大富豪の2人の全く異なる個性に我々は何を学べばよいのか考えてみたい。
「議論」と「口論」は違う
ツイッター問題に関して言えば、「『議論』と『口論』は違う」という言葉に集約されると思う。 ツイッターには140文字の制限がある。
だから、元々論理、哲学、さらに具体的資料を用いて議論することには向いていない。 もちろん、日本では5・7・5=17文字の俳句、5・7・5・7・7=31文字の和歌という偉大な伝統がある。
だから、少ない文字で簡潔な表現を行うことそのものは間違ってはいない。しかし、俳句や和歌は、あくまで感性(感情)を伝える(共有)する手段であって、何かを議論する道具ではない。
また、ツイッター上で和歌や俳句のような洗練された感情表現にお目にかかることは滅多にない。もちろん、精緻な論理・哲学とも無縁だ。
もっぱら誰かを攻撃するような「負の感情」を「汚い言葉」で表現することに明け暮れているように感じる。
実際には、友好的かつ好感の持てるツイートも少なくないのであろうが、それらよりも「負の感情」を「汚い言葉」で表現したツイートがネット上を駆け巡るようだ。
バフェット氏は、「すべてのことに即時に対応するのは間違いだ」、あるいは「Twitterで投稿する前に2時間の余裕があれば、多くの人はそのひどい投稿を考え直して削除するだろう」とも述べている。
俳句や和歌はそれぞれ17字、31字の短い文章だが、他人にお披露目する前に言葉の表現の細部まで熟慮するのが普通だ。
だからこそ、優れた文学にもなりえる。 結局、文字数さえ問題ではなくて、マスク氏とバフェット氏の(ツイッターに対する態度の)違いは、「延髄を駆使した反射神経で言葉を吐き出す」のか、あるいは「大脳で熟慮を重ねてから口を開くのか」という点に集約されるといえよう。 前者は単なる「口論」に陥りかねないが、後者は「(建設的な)議論」になりえる。
「段取り八分の仕事二分」
我々がレストランで食事をするときには当然のごとく、シェフの手によって出来上がった料理を楽しむ。
場合によっては、オープンキッチンで厨房の中の様子をうかがうことはできるが、稀なケースであるし、それ以前の仕込みや仕入れの状況を我々が目にすることはまずない。
だが、料理というものは厨房器具、料理道具が無ければ作ることができない。水道、ガス、さらにはガスレンジなどは必需品であるし、鍋、釜(窯)、フライパン、包丁などが無ければまともな料理を完成させるのは難しいであろう。
もちろんそれらを、メンテナンスし、清潔な状態に保つことも重要だ。 さらに、食材の仕入れも重要だ。鯛を仕入れていなければ、鯛の煮つけを提供することは不可能である。
したがって、我々がオープンキッチンで見かける、一般的に「調理」と呼ばれる作業の前には、膨大な労力を費やす「段取り」が存在するのである。 また、料理を楽しむ我々から見れば、テーブルに料理が運ばれてくる前に「調理」を含めた「段取り」が存在する。
これが「段取り八分の仕事二分」ということだ。極北に浮かぶ氷山も表面に出ている部分はごくわずかで、水面下にほとんどが隠れているが、同じように「段取り」も普段我々の目には触れない。しかし、非常に大きくかつ重要な存在なのだ。
「5分で握手」できるバフェット
例えば、バフェット氏はM&Aにおいて「売却先の相手と初めて会ってから5分で握手(契約締結)する」ことを自慢にしている。
バフェット氏は、敵対的買収は行わず、相手から「売却したい」というオファーがやってくるのを待つ。そして、自社の売却を希望している企業に、「売却希望条件」と「簡単な決算書」を郵送するよう依頼するのだ。
その後、決算書の内容を自分自身で(会計士などの専門家は使わない)精査し、バークシャーグループ傘下の経営者の情報網も駆使して、その企業の実態を確認する。 そして、「売却希望条件」でその会社を購入することが妥当だと判断したときにだけ、先方を訪問する。
つまり八分の「段取り」が完璧に行われているので、二分の仕事の量は激減して「握手」と「サイン」だけになるのだ。 彼は「投資家の仕事は株式を購入するまでに大部分が終わり、それ以降はほとんどすることが無い」とも述べる。
ちなみに、バフェット氏は相手の売却希望価格を値切ったり、条件を交渉したりはしない。買収後もその会社を長期的に繁栄させるためには、相手との友好関係が大事であり(バフェット氏のM&Aでは、オーナーであった既存経営陣がそのまま残るのが原則)、売却希望企業の要望を受け入れるということが重要だとの考えによるものだと思われる。
実際、売却交渉でしこりを残した経営陣と、長期的に友好関係を維持するのは難しいから、将来的に企業経営の上での足かせになると予想される。
毎日の投稿と年1回のバフェットからの手紙
冒頭のツイッターについてバフェット氏は「あらゆることに関して日常的に見解を持っているわけではない」と述べている。 また、バフェット氏の発言の場は、年1回の総会と「バフェットからの手紙」が中心だ。
それで充分だと考えていると思われる。 「バフェットからの手紙」は、元々バークシャー・ハサウェイの決算書の「株主の皆様へ」とでも言うべき存在であったが、その内容の充実度が株主以外にも評判になったため、一般にも公開される事になったという経緯がある。
私も愛読者の1人であり、3月3日公開「『投資の神様』バフェットが、いま『手元の現金』を増やしている理由」を始めとして、例年手紙の公開後に記事を執筆している。
年に1回だけだが、数十年分を通して読んでみると、「バフェットの哲学の真髄」が手に取るようによくわかる。そして過去半世紀ほどを振り替えれば、バフェット氏の主張は常に一貫している。
また、バークシャーの年次総会は「投資業界のウッドストック(伝説的な音楽フェスティバル)」と呼ばれる盛大なお祭りだが、その核心は、バフェット氏と副会長のマンガー氏が、数時間にわたって直接会場の株主の質問に答えるというスタイルである。
大変残念なことに、活動家が総会に乱入したり、参加者の人数が膨れ上がったことから、事前に寄せられた質問を「コーディネーター」が扱うというスタイルに移行しつつあるが、「会場の株主の前でバフェット氏やマンガー氏が直接答える」という形式に変わりはない。 ただし、総会も「年に1回だけ」である。
イーロンマスクは「かしこあほ」?
「見た目『あほ』と中身『かしこ』の処世で危機の時代を乗り切ろう」という話をしている。 簡単に言えば、「かしこあほ」は見た目は賢いが、中身はあほ。逆に「あほかしこ」は、見た目はあほだが中身は賢い人物のことである。
マスク氏とバフェット氏、どちらがどちらであろうか? もちろん、私はバフェット氏の強力な支持者であるので、その分を割り引いて考えていただきたいが、私の目にはマスク氏が「かしこあほ」で、バフェット氏が「あほかしこ」のように見える。
マスク氏は時代の先端とされる電気自動車や宇宙関連事業で成功し、ツイッターなどの発言でも常に注目を集めるカリスマである。才気あふれる経営者と表現しても良いと思う。
それに対してバフェット氏は、今でこそ「投資の神様」として崇められているが、長年「金持ちのくせにドケチ」、あるいはITバブルの頃には、IT企業に投資をしなかったことから「先端技術がわからないおいぼれのポンコツ」とメディアから批判されていた。
また、バフェット氏自身が「私が着ているスーツは高級品だ。私が着ているからしみったれて見えるだけだ」とジョークを述べるほど、身なりにかまわず風采が上がらないのも事実だ。
終わりよければすべてよし
だがそのバフェット氏が、子供時代から常に成功を続けてきたのだ。11歳の頃から70年以上も「成功を継続」してきたことが重要である。
それに対して、「天高く舞い上がったものは、結局地上に落下する」と言う言葉を思い起こさせるのが現在のマスク氏である。 勝負の結果は長い人生を生きてみて初めてわかる。どちらが最終的に幸せな人生になるのであろうか? 我々は「熟慮」すべきではないだろうか。